「和(やわ)す心」という社会思想 - 拙著「新・日本通鑑2」より

2018/05/27


 

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日本の歴史を眺めつつ感じるのは、
「太古の日本は極めて平和だ」
ということです。
 
他国の歴史書と大きく異なり、戦乱らしい戦乱の記述がありません
強いて挙げるとすれば、荒ぶる神スサノオが高天原で暴れまわった、とか、国譲りのエピソードにおいてタケミカヅチが、オオクニヌシの子タケミナカタと力比べを行い信州諏訪まで押し出した(笑)、といった程度です。

実際の歴史においてもそうだった、とは言い切れません。
何故なら縄文晩期辺りから環濠(あるいは環壕)集落が登場し始め、弥生時代に入ると急速に増加します。これは各地で戦乱が生じた証拠かもしれません(いや戦乱ではなく、主に野生動物対策だろう、と幸田は考えていますが・・・・)
 
石鏃(せきぞく)(やじり)は元々狩猟に使用されたと考えられますが、紀元前1世紀あたりから畿内を中心に、人間を殺傷するために用いられたケースが増加します(それこそ神武東征の物的証拠かもしれません)
また大分や宮崎では、早い時期から鉄鏃(てつぞく)が生産されています。石ではなく鉄のやじりです。それらは最初から人間を攻撃する武器として考案、製造されたと言われています。
 
そういった考古学的根拠が存在する以上、戦乱は現実にあったと考えられます。しかしながら記紀や古史古伝を読むと、日本人的倫理観として、古代より「争い」をネガティブに捉えていることが解ります。
 
それどころか、動物さえもむやみに殺生するなと戒めています。これは、
「6世紀頃入ってきた、仏教思想の影響だ」
と学者先生方は主張していますが、古史古伝にも戒めとして記述されているので、仏教伝来以前から存在した日本独自のモラルだと思われます。
 
ですから神や天皇は、何か問題に直面すると、まずブレーンを集めて協議を行います。
 
なんと世界最古の「合議制」です。
方針がまとまると、対立する勢力に交渉役を派遣しています。いきなり攻撃を仕掛けるということはありません。辛抱強く交渉を重ね、決裂した場合にようやく争いへと発展します。
しかしながらその争いも、なるべく大事(おおごと)にならないよう、代表者同士の一騎打ちといった手段が好まれていたことが伺われます。
 
これまた国津神オオクニヌシの、国譲り話が好例です。
この時オオクニヌシは、天津神勢力から言わば無理難題を吹っかけられました(笑)。長年苦労してまとめ上げたこの国の統治権を、黙っておとなしく譲れ、と強請(ゆす)られたわけですから。
 
オオクニヌシは、心中穏やかでなかったと思われます。しかし道理として断れない。ですから、
「オラ隠居の身だから、知らねえ。息子達に聞いてくれ~」
と逃げを打ちます。
 
当然、息子達はあっさり承服できません。しかし天津神使節団長タケミカヅチと、オオクニヌシの息子タケミナカタが力比べを行い、タケミナカタが敗北しました。そこでオオクニヌシはそれ以上の悪あがきをせず、潔く統治権の禅譲を行った、というのです。
 
幕末維新の大政奉還、江戸城の無流血明け渡しに通じるものがあります。
 
「平和を旨とする」
という古代日本の社会思想の存在は、例えば古史古伝「秀真伝(ホツマツタヱ)」に、
「国を治める者にとって、和(やわ)す心が大切である」
と書かれていることからも明白です。日本という国は極めて古い時代から、平和主義を掲げていたのです。
 
これが後々、「和をもって貴しと為す」という聖徳太子の思想へと繋がります。
 
 
その2へ続きます。