「平和である」ということ - 拙著「新・日本通鑑2」より
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その1より続きます。
「平和」とは、なかなか奥の深い言葉です。概念です。
戦後日本は憲法に「平和主義」を掲げています。そして確かにこの70年、戦力による争いを一切起こしていません。ですので、
「日本においては平和が保たれている」
と言われれば、その通りかもしれません。
しかしその一方で、争いを徹底して避けるがため、譲歩につぐ譲歩を重ねています。
また、終戦直前に奪われた北方領土や戦後に奪われた竹島を、未だに奪還出来ていません。争いを避けるべく「問題を棚上げ」とした尖閣問題は、ここにきて再燃しています。従軍慰安婦問題しかり、です。
政治力に乏しく、欧米や周辺諸国に平身低頭。その癖、国際的な発言権を確保しようと、途上国には援助という名目で大金をばら撒き支持を取りつける。・・・・
こうして大いに国益を損ねています。
そういった日本の現状を見る時、本当に「平和だ」と言えるのでしょうか。
他国の紛争には、積極的に関与しようとしない。しかし欧米諸国から、
「日本も動かんかい!!」
と突かれると、慌てて彼らのケツについて回る。あるいは金だけ出す。PKO部隊を派遣し一応の対面を保つ。
一方で、戦力を行使しない「争い」、即ち「経済戦争」には先陣を切って飛び込む。企業戦士が世界中を飛び回り、全力で血みどろの争いを繰り広げる。・・・・
それが「平和」だと言うのであれば、なんとも底の浅い「平和主義」ですな(^^;
- 自国が戦争になりさえしなければ、平和だと言えるのでしょうか?
- ご無理ごもっとも、と周辺諸国に頭を下げまくり国益を損ね続けていても、平和だと言えるのでしょうか。
- 他国がどれだけならず者に蹂躙されていても、見て見ぬふり。
- 戦力を用いない争いであれば、何でもアリ。
- ・・・・。
結局、「平和」とは何なのでしょうか。
いや、確かに本質的には「争いのない世界の実現」ということでしょう。どう実現するはかともかくとして、あらゆる争いがなくなれば、「平和」が見えてきます。
幸田はここで、提案します。
「『平和』を考えるなら、まず縄文時代を研究すべし」
と。
日本の縄文時代史こそが、平和な社会を考える上での「最良の教材」となり得るのです。「和(やわ)す心」を学ぶべきなのです。
日本の縄文時代は、
- 気候が温暖で、誰もが容易に衣食住を確保出来る時代だった。
- 特に『食』のユートピアだった。
- 食の確保にほとんど労働を必要とせず、その結果社会構造の複雑化を要しなかった。
- だからほとんど『権力の集中』が生じなかった。
- 何らかの形でリーダーは存在したと思われるが、リーダーが権力を誇示する必要もなかった。
- だからこそ巨大建築物も、巨大な墓もない。
- おそらくそれらの結果として、『戦乱』がなかった。戦闘により傷ついた人骨が、ほとんど見つかっていないことが、それを証拠づけている。
と言えます。
そこから、
- 衣食住、特に『食』の不足や欠乏が生じると、そこに『争い』が生まれる。
- 衣食住に不足や欠乏が生じると、『リソースの配分』即ち『政治』を必要とする。
- 結果、社会構造が複雑化する。
- 『社会構造の複雑化』が進行すると、どうしても富や権力に偏りが生じる。そこに『欲』が生まれる。
- 『欲』が、さらなる『争い』や『格差』を生む。
といったことが推測出来ます。
するとそこに「現代型社会の本質的欠陥」が浮き上がってきます。
同時に、「平和」が失われる原因が見えます。
いかがでしょうか。
「平和」を目指したければ、縄文時代の美点を徹底追求すれば良いのです。縄文時代に倣って、新たな社会思想を構築すれば良いのです。
そして、
「これぞ日本の平和主義だ」
と、世界に対し堂々と主張すべきではないでしょうか。
「今日の自由主義経済社会、グローバル経済社会は、『平和』というものさしで見れば方向性に誤りがある」
と指摘すべきではないでしょうか。
その3へ続きます。
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