今こそ「西郷どん」 ~「賊」だからこそわかる気がする~

2016/12/13

2018年の大河ドラマは「西郷どん」。

我がまち延岡は、遠藤周作の小説「無鹿」などでも取り上げられているように、西南の役で薩軍が最後の組織的戦闘を行い、敗れた西郷隆盛が陸軍大将の軍服を焼き、軍を解散した所であり、延岡市北川町には「西郷隆盛宿陣跡資料館」があります。

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また宮崎県内各地にも西郷隆盛ゆかりの場所があります。

 

ちなみに、私の事務所のすぐ傍には政府軍のトップだった山縣有朋の指揮所跡もあります。

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大河ドラマをきっかけに、全国の多くの人に宮崎県、そして延岡市に来てほしいと思います。

地元としては、早急に誘客対策を実行していく必要があると思います。

 

 

そして、さらに、私は、単に観光として全国の人に来てもらうだけではなく、

西郷が命を捨てた西南の役とは一体どんな意味があったのか?

西郷は何を憂い、何に怒っていたのか?

なども考えるきっかけになればと願っています。

 

 

西南の役は我が国での最後の内戦です。

なぜ、明治維新の中心人物が、明治維新の結果誕生した新政府に対して反乱を起こしたのでしょうか?

これを考える上で参考になると思われるのが、長州の白石正一郎という人のエピソードです。

白石正一郎は下関の豪商で、高杉晋作の改革に全面的に協力し、そのために事業は破産し、破産後は赤間神宮の宮司になったそうですが、維新後の政府について「こんなはずではなかった。もし高杉さんが生きていたらこんな政府にはならなかったはずだ。」と憂いていたと、司馬遼太郎がその著書で紹介しています。

明治維新で中心的な役割を果たした人たちが「こんなはずではなかった。」と考えたとは・・・一体どういうことなのでしょうか?

 

 

単に主流になれなかった人達のねたみ・ひがみ・不満と片づけるのは早計だと私は思います。

 

 

西郷隆盛というと、ともすれば、無謀な征韓論を唱えた時代遅れの人とか、不平士族の情に流された人、などといったイメージで語られることもあります。

しかし、私は、西郷隆盛は、いわば「徳治主義」の政治を目指し、大久保利通などの「官治主義」の行く末を憂い、本来のあるべき政治を取り戻そうとしていた人なのではないかと思っています。

西郷隆盛は二宮尊徳の地域再生の行政にも深い関心を持っていたそうです。

戊辰戦争の後、西郷は我が国に二宮尊徳のような政治・行政を広めようとしていたのではないかと私は思います。

 

 

二宮尊徳の言葉で、例えば次のような言葉を考えると、西郷の目指していた政治がどのようなものか、わかるような気がします。

「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である。」

「奪うに益なく、譲るに益あり。」

 

 

明治維新が成就した後、「官軍」の側の人間の中には、贅沢な暮らしをし、権限を濫用し、汚職にまみれていた者がたくさんいたことが当時のいろいろな事件からうかがえます。

「多くの志士はこんな世の中をつくるために命を捨てたのではない。」西郷の怒りや絶望は私にもわかる気がします。

西郷は、若い頃、薩摩藩の吏員として上司の賄賂等を憎み抗議行動を起こしたこともあるのです。

 

また、重大な決断を何度も行ってきた西郷は、きっと幕末のことを振り返っては、「自分の決断の結果、多くの人命が失われたが、それは国づくりの大義のためにはやむを得なかった。」と自らに言い聞かせてはいたものの、明治になってからの政治の卑しさ、大切なことをないがしろにした上っ面だけの政治に強い怒りを抱いたものと思います。

 

さらに、近代化の名の下に、日本の過去のすべてを否定し、西洋のものまねを良しとする風潮。

その風潮に乗っかった政治・行政。

江戸時代の各藩の自立性・いわば地方自治も明治の中央集権主義により失われていきました。

 

また、武士道や薩摩の郷中教育で育まれてきた「弱い者いじめはいけない」「うそをついてはいけない」などの考え方をなおざりにする風潮。

人としての徳を高めるよりも、西洋の技術を真似し取り入れるための勉強こそが学問であるかのような風潮。

 

当時のこれらの風潮に西郷は強い危機感を持っていたはずです。

だからこそ、西郷は、ふるさとに戻って、次世代の学びの場「私学校」での人づくりに力を入れようとしたのだと思います。

 

先の参議院選挙で「賊」だった私には、西郷が何を考えていたのか、少しだけわかるような気がしています。

 

皆さんが「こんな考えもあるのかな?」と思いながら宮崎県内の西郷ゆかりの地を周遊していただければうれしく思います。